不定形備忘録

書き留めたいことがあれば更新します!10割自己満です

父に自分の欠点を指摘された

父と語らった。こんなことは人生最初で最後だろう。

私の欠点を教えてくれた。言葉の端々で人を不快にさせる、ということらしい。

コミュニケーションを取る上で一言で済む話を、知識や経験のエピソードをまるめて長々と話すということ、らしい。くどい。常に相手を納得させよう、という風に捉えられる話し方をしている、らしい。

なるほど。

中学時代からの付き合いの友人にも「すべてを説明しようとする癖がある」と指摘されたことがあった。当時は何が言いたいのか、何が問題なのかは分からなかった。数年越しに理解できた気がする。

なんでも父親曰く、話が長い人は(本人にそのつもりがなくても)保守的に見られるそうだ。己を正当化しようとしているように見られる、ということ。それは損だ。

これについて考えてみた。恐らく、この正当化というのは「言い訳」がましく聞こえるということではないだろうか?

たとえば、何か勝負事で負けたとする。潔く負けを認めるか、負けるまでの要因やもっと何かできたはずだと述べまくるのは、後者は言い訳しているように取られてしまう。

つまりだ。説明しているつもりでも、聞いてる側が求めていることと異なれば、言い訳のように聞こえてしまう、という話だ。

私が会話の時に心掛けているのは「相手主体に話そう」というものがある。自分語りや、そぐわない無関係な話と問い等、相手が気持ちよくならないことはしない。ただそれも塩梅があるので少しは自分のことを話してオープンにすることは意味があると思っているし、話の流れをぶった切って話題を変えることは面白いことには面白い。

さて。私がどうすればよいか。

私は、なんでもかんでも理由を話す癖がある。どこどこで何をした、っていう話で、どうしてそこ?どうしてそれ?どうしてやった?というwhyに目が行くことが多い。

相手に多少聞くのは問題ないだろう。何事も程度は重要だ。

加えて言うならば、(これは育ってきた環境に左右されるだろうけど)「なんで?」って聞かれることが非難されてると思い込む人はいる。私もそう。

私の癖の話に戻すが、理由ばかり話す人はいわゆる"負け惜しみ"及び"言い訳"を連ねている人に見られるということではないだろうか?

それは…よくない。よくないし、そもそも、理由を気にしてない人って多い。実際俺もそう。俺もそう。

しかしだ、理由を求めることが適した環境がある。それは勉学。

勉学はフィーリングではなくこれがこうなってこれがこうなる、の原理から学んでいかねば実にならない。

私は電気について大学で学んでいる間、この重要性を学んだ。何事も基礎が大切にされる理由を体系的に知った。この経験が私の癖を生み出して助長したのだろう。理由を話せるなら話した方がベター、そんな思考に辿り着いたのかもしれない。

先ほどと話すことと重複するが、人は理由を開示すると負け惜しみに聞こえ印象が悪く、話が長いと言い訳紛いに聞こえて自身の正当化に勘違いされ印象が悪く、という話だろう。

なんでもかんでも因果関係を示す必要はない。聞かれたら答える、くらいでよいのだろう。確かに、私は昔から「なぜなら〜〜だからです」っていうのを会話の中で多用していた。

何かを学ぶ時、分析を行う時など普段の会話とは離れた場合は理由を聞き、また理由を話すことに重点を置くのはそれはそれで相応しい。

自分の欠点の克服はそんなに難しくない…はずだ。因果関係を話しすぎるのを避けるだけ。意識していこう。

 

たしかに、私は「できるからやる」っていうことが多々あった。それはここに起因するのだろう。

なんでやった?できるから。

できるからやることは問題ないけど、なんでやったかは話さなくていいよね。

そう思うと、理由を聞くwhyは、相手の非難の他にも嫌味っぽく聞こえる部分もありそうだ。

とにかく、自分の理由をひけらかす必要性の薄さを、知った。

 

 

おわり

 

P.S.殺人の夢を見た。生まれて初めて人を殺めた。夢占い的に、自身の弱点の克服、を示すらしいです。なんだか嬉しいな。